人生を止めた夜、心を呼び出した。

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 その着信音は、夜の静けさを切り裂くには、あまりにも無機質だった。

 午前二時十七分。
 デジタル時計の赤い数字が、部屋の天井にぼんやりと反射している。窓の外では、雨が降っているわけでもなく、風が強いわけでもない。ただ、都会特有の、音のないざわめきだけが漂っていた。

 スマートフォンが、机の上で小さく震えた。

 ――ブーン、ブーン。

 それだけだ。
 派手なメロディも、通知音もない。
 それなのに、心臓が一拍、遅れて強く打った。

 こんな時間に、誰だ。

 布団から半身を起こし、机に手を伸ばす。冷えたガラス面に触れた瞬間、指先がわずかに痺れた。画面は、まだ点灯していない。だが、着信が続いていることは、振動で分かる。

 ――ブーン、ブーン。

 名前は表示されていなかった。

 非通知

 それを見た瞬間、胸の奥で何かが嫌な音を立てて崩れた。

 出るべきか、出ないべきか。
 そんな選択肢が存在すること自体が、すでに不自然だった。

 この時間帯に非通知でかかってくる電話に、ろくなものはない。セールスでも、間違い電話でもない。もっと、別の何かだ。

 それでも、指は画面の緑色のアイコンの上で止まっていた。

 理由は分からない。
 ただ、逃げてはいけない気がした。

 深く息を吸い、吐く。
 そして、通話ボタンを押した。

「……はい」

 一瞬、何も聞こえなかった。

 無音。
 だが、それは回線が切れているような無音ではない。向こう側に“何か”がいて、こちらの呼吸を待っているような沈黙だった。

「……聞こえていますか」

 そう言った自分の声が、やけに遠く感じられた。

 数秒後、ノイズ混じりの音がした。

 ザッ……ザザ……。

 そして、低い声が、はっきりと耳に届いた。

『久しぶりだね』

 その一言で、全身の血の気が引いた。

 忘れるはずがなかった。
 声の調子、間の取り方、語尾の癖。

 彼の声だった。

「……どうして」

 喉が、うまく動かない。

『どうして、か。ひどいな。番号も変えてないのに』

「……あなたは……」

 言葉を続けられなかった。

 彼は、もうこの世にいない。
 それは、疑いようのない事実だった。

 三年前の夏。
 あの事故の日、私は確かに、彼の亡骸を見た。病院の白い天井の下で、冷たくなった手を握り、泣きながら名前を呼んだ。

 葬式も、四十九日も、終えた。
 すべて、過去になったはずだった。

『まだ、そんな顔してるんだろ』

 彼は、笑っているような声で言った。

『夜になるとさ、昔のこと、思い出すんだろ』

「……やめて」

 声が震えた。

『やめないよ。だって、君が呼んだんだ』

「呼んでない!」

 思わず、声を荒げる。

「私は……何もしてない……!」

 一瞬、沈黙。

 そのあと、彼は静かに言った。

『本当に?』

 頭の中に、いくつもの記憶がよみがえる。

 彼の命日が近づくたびに、無意識にスマートフォンを握りしめていたこと。
 連絡先を消せずに、何度も名前を開いては閉じていたこと。
 夜中、心の中で「もしも」を繰り返していたこと。

 ――もし、あの時、電話に出ていたら。

 事故の直前、彼から着信があった。
 仕事中で、私はそれを無視した。

 「あとでかけ直す」
 そう思ったまま、永遠にその“あと”は来なかった。

『あの時さ』

 彼の声が、少しだけ低くなる。

『君、画面見たよね』

 心臓が、耳の奥で鳴った。

『俺の名前、表示されてたよね』

 答えられなかった。

『それでも、出なかった』

 責める口調ではなかった。
 ただ、事実をなぞるような声音だった。

「……ごめんなさい」

 絞り出すように言った。

『謝らなくていい』

 彼は言った。

『でもさ、聞きたいことがある』

「……何」

『今度は、出てくれる?』

 意味が、分からなかった。

「……今度って?」

 その瞬間、スマートフォンが、もう一度震えた。

 ――ブーン、ブーン。

 耳に当てていたはずの端末が、手の中で鳴っている。

 混乱して画面を見る。

 着信中

 表示されている名前は――

 彼の名前

 通話中の画面と、着信画面が、重なっていた。

『ほら』

 耳元で、彼の声がする。

『今、鳴ってる』

 指が、動かない。

 出れば、何が起こるのか分からない。
 出なければ、また同じ後悔を抱えて生きることになる。

 スマートフォンの振動が、次第に強くなる。

 ――ブーン、ブーン、ブーン。

『ねえ』

 彼の声が、少しだけ優しくなる。

『今度は、逃げないで』

 涙が、画面に落ちた。

 私は、震える指で、通話ボタンを押した。

 その瞬間――
 世界が、静止した。

 音も、光も、時間も、すべてが凍りつく。

 そして、彼の声が、最後にこう言った。

『これで、やっと話せるね』

 ――プツン。

 通話は切れた。

 部屋は、元の静けさに戻っていた。
 時計は、午前二時十七分のまま止まっている。

 スマートフォンの画面には、履歴が一件だけ残っていた。

 着信履歴:不在着信(1件)

 名前は、どこにもなかった。

 私は、しばらく動けずに、暗い部屋の中で座り続けた。

 そして、朝になって気づいた。

 スマートフォンの連絡先に、
 ――消したはずの、彼の名前が、戻っていたことに。

 次の着信音が鳴るのは、
 きっと、今夜だ。

その夜、着信音は鳴らなかった。

 午前二時十七分。
 昨日と同じ時刻。
 同じ部屋、同じ暗さ、同じ沈黙。

 私は布団の上で、スマートフォンを胸に抱えたまま、じっと天井を見つめていた。心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 ――ブーン。

 来る。
 そう思って、息を詰めた。

 だが、何も起こらない。

 画面は暗いまま。
 時間だけが、静かに流れていく。

 しばらくして、私はゆっくりと起き上がり、連絡先を開いた。
 そこにあったはずの、彼の名前。

 ――消えていた。

 指で何度もスクロールする。
 見間違いではない。
 確かに、そこにはもう存在しなかった。

 胸の奥が、すうっと軽くなるような、同時にぽっかりと穴が空いたような、不思議な感覚。

 あれは、夢だったのか。
 それとも、最後の着信だったのか。

 答えは、どこにもない。

 ただ一つ分かっているのは、私はもう、あの夜の自分ではないということだった。

 翌朝、カーテンを開けると、久しぶりに澄んだ光が部屋に差し込んだ。埃が舞い、空気が白く輝く。

 スマートフォンを手に取り、電源を入れる。
 通知はゼロ。
 着信履歴も、空白。

 私は、深く息を吸った。

「……行ってきます」

 誰に向けた言葉でもなかった。
 それでも、口に出さずにはいられなかった。

 玄関を出ると、朝の街は驚くほど普通で、騒がしくて、現実的だった。車の音、人の話し声、遠くで鳴る踏切。

 生きている世界は、こうして続いている。

 ポケットの中で、スマートフォンが静かに重みを主張する。
 もう、鳴ることはないだろう。

 けれど、もしもまた、いつか。
 どうしようもなく夜が深くて、心が弱くなったとき。

 その時は、私はきっと、迷わず出る。

 ――着信音が、鳴る前に。

 そう思いながら、私は前を向いて歩き出した。

 空は高く、朝日はまぶしく、
 過去は、もう振り返らなかった。

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