開演五分前。
ステージ裏の通路は、思ったよりも狭く、思ったよりも暗かった。壁に貼られた黒い吸音材が、心臓の鼓動を吸い取ってくれるならいいのに、と馬鹿なことを考える。自分の鼓動が、やけに大きく響いている気がしてならなかった。
マイクスタンドが一本、静かに立っている。
スポットライトの光が、幕の隙間から細く差し込み、ステージ中央を照らしていた。その光の中に立つのが、あと数分後の自分だと思うと、喉がひくりと鳴る。
「大丈夫?」
背中越しに声がした。振り返ると、スタッフの女性がクリップボードを抱えて立っていた。柔らかい笑顔なのに、その目は現場の空気を知り尽くしている人の目だった。
「……はい」
反射的にそう答えたが、本当はまったく大丈夫じゃなかった。足の裏がふわふわしている。手のひらは湿っていて、握ったはずのピックが、いつの間にかポケットの中で迷子になっている。
今日が、初めてのステージ。
客席には百人にも満たない観客しかいないと聞いている。それでも、自分にとっては世界のすべてだった。
思い返せば、ここまで来るのは長かった。
初めて楽器に触れた日のことを、今でもはっきり覚えている。指先が痛くて、音はうまく出なくて、それでも夜が明けるまで夢中で鳴らし続けた。誰かに聴かせるためじゃない。ただ、自分の中に溜まっていた言葉にならない感情を、音に変えたかっただけだった。
いつからだろう。
「誰かに聴いてほしい」と思うようになったのは。
ライブハウスの壁に貼られた無数のフライヤー。その中の一枚に、自分の名前が載っているのを見つけたとき、胸が詰まるような感覚がした。嬉しさと恐怖が、同じ重さで押し寄せてきた。
――本当に、やるのか。
自問自答を何度も繰り返した。
逃げる理由なら、いくらでも思いついた。まだ早い。下手だ。自信がない。観客に笑われるかもしれない。全部、正しい理由だった。
それでも、今日ここに立っている。
「次、あなたです」
スタッフの声が、現実を引き戻す。
ステージ上から拍手が聞こえた。前の演者の演奏が終わったのだ。歓声とともに、幕がゆっくりと閉じていく。
足が、勝手に前へ進み出す。
一歩、また一歩。スポットライトが近づくにつれて、視界が白く滲んでいく。
ステージに立った瞬間、思った。
――まぶしい。
客席は暗く、顔はほとんど見えない。それでも、無数の「視線」だけは、はっきりと感じた。息を吸おうとしたのに、肺がうまく動かない。
「……こんばんは」
マイクに声を乗せたつもりが、驚くほど小さな音しか出なかった。
ざわり、と客席が揺れる。そのわずかな反応だけで、心臓が跳ね上がる。
もう、逃げ場はない。
深く息を吸い、目を閉じた。
家で何百回も弾いたフレーズ。何度も失敗して、何度もやり直した旋律。頭の中で、音が流れ出す。
最初の一音を鳴らした瞬間、世界が変わった。
音が、空気を震わせる。
指先の感触が、はっきりと戻ってくる。震えていたはずの手が、いつの間にか自然に動いていた。
――ああ、これだ。
客席のことを考える余裕はなかった。
ただ、音を前に進める。それだけに集中した。間違えた箇所もあった。リズムがずれた瞬間もあった。それでも、止まらなかった。
歌詞を紡ぐたび、胸の奥が少しずつ軽くなっていく。
今まで誰にも言えなかった弱さも、情けなさも、音に乗せて放り投げるような感覚だった。
ふと、客席の一角が目に入った。
小さく頷きながら聴いている人がいる。腕を組んで、じっとこちらを見つめている人もいる。スマホを構える人。目を閉じている人。
――届いている。
確信とも錯覚ともつかない感覚が、胸に広がった。
最後の音が、空間に溶けていく。
一瞬の静寂。そのあと、拍手が起こった。
大きな拍手ではなかった。
けれど、確かにそこにあった。
頭を下げた瞬間、視界が滲んだ。
泣くつもりなんて、なかった。ただ、力が抜けただけだ。
ステージを降りると、さっきのスタッフが笑顔で迎えてくれた。
「よかったですよ」
その一言で、すべてが報われた気がした。
楽屋に戻り、ケースに楽器をしまう。
指先はまだ熱を持っていて、心臓の鼓動も少し早いままだった。
初めてのステージは、完璧じゃなかった。
でも、確かに「始まり」だった。
誰かに聴いてもらうことの怖さと、喜び。
自分の音が、世界とつながった瞬間。
帰り道、夜風がやけに心地よかった。
空を見上げると、いつもと同じ星が瞬いている。
――また、立ちたい。
そう思えたことが、何よりの収穫だった。
初めてのステージは、終わった。
そして、物語は、ここから始まる。
ライブハウスの扉を押し開けると、夜の空気が一気に流れ込んできた。
少し湿った風が、火照った頬をなでる。遠くで車の音がして、誰かの笑い声が交差点の向こうから聞こえた。世界は、何事もなかったかのように動き続けている。
それなのに、自分の中だけが、まだステージに立ったままだった。
ポケットに手を入れると、さっきまで震えていた指先が、嘘みたいに落ち着いていることに気づく。
あれほど怖かった場所が、今はもう、少し懐かしい。
思い出すのは、ライトのまぶしさと、最後に聞こえた拍手。
完璧じゃなかった。間違えたところも、声が裏返りそうになった瞬間も、全部覚えている。それでも、不思議と後悔はなかった。
――あれが、今の自分だ。
駅へ向かう道を歩きながら、自然と足取りが軽くなる。
明日から何かが劇的に変わるわけじゃない。人気者になるわけでも、世界が広がるわけでもない。きっと、明日も同じ日常が続く。
それでも、確かに違う。
「またやりたい」
声に出してみると、その言葉は夜に溶けていった。
でも、消えなかった。胸の奥に、しっかりと残っている。
初めてのステージは、たった一夜で終わった。
けれど、そこで生まれたものは、終わらない。
不安も、恐怖も、期待も、すべて抱えたまま、また一歩進めばいい。
次に立つ場所がどこであっても、あの光と音を、きっと忘れない。
空を見上げると、雲の切れ間から星が一つ、瞬いていた。
それはまるで、「続けろ」と言っているみたいだった。
初めてのステージは、終わった。
そして、物語は――確かに、始まっている。

