『グラスが触れた、その瞬間から』

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その合コンは、最初から少しだけ予感めいたものを孕(はら)んでいた。

 木曜日の夜、雨上がりの新宿。ネオンが濡れたアスファルトに溶け込むように反射している。店の名前は「灯(あかり)」。和モダンを売りにした個室居酒屋で、薄暗い照明と木の香りが、必要以上に人を落ち着かせる。

「久しぶりだな、こういうの」

 俺——三十二歳、営業職、独身。合コンという単語が、いつの間にか日常から外れ始めていた年齢だ。誘ってきたのは大学時代の友人・拓也だった。

「今回は当たりらしいぞ」
「その“当たり”って基準が、もう怪しいんだけどな」

 そう返しながらも、心のどこかで期待している自分がいる。仕事と家の往復だけの生活に、少し飽きていたのだ。

 個室の引き戸を開けると、すでに女性陣は揃っていた。

 四人。

 最初に視界に入ったのは、白いニットに黒のスカートを合わせた女性だった。長い髪を一つにまとめ、姿勢が妙にきれいだ。隣には、よく笑うショートカットの女性。その横に、少し緊張気味でスマホを握りしめている子。最後に、静かに微笑んでこちらを見る女性。

 その目が、なぜか離れなかった。

「こんばんは」

 彼女の声は、驚くほど落ち着いていた。

 合コンは、形式的な自己紹介から始まる。名前、仕事、趣味。何度も繰り返してきたやり取りなのに、今日はなぜか、ひとつひとつの言葉が妙に重く感じられた。

「私は、紗季です。出版社で編集の仕事をしています」

 その瞬間、彼女の言葉に、軽いざわめきが起きた。編集者。珍しいわけではないが、どこか知的な響きがある。

「普段は本ばかり読んでいます。お酒は…弱いです」

 照れたように笑う。その笑顔は、控えめなのに、妙に印象に残った。

 乾杯。

 グラスが触れ合う音が、個室に小さく響く。

 最初は無難な会話だった。仕事の愚痴、最近のドラマ、休日の過ごし方。拓也は相変わらず場を回すのがうまく、女性陣もよく笑う。

 けれど、俺の意識は、自然と紗季に向いていた。

「編集って、大変そうですね」
「大変ですよ。でも、好きじゃないとできない仕事かもしれません」

 彼女はそう言って、少しだけ目を伏せた。

「好き、ですか」
「はい。本を作る過程が好きなんです。完成した本を本屋で見かけると、ちょっとだけ誇らしくなります」

 その言葉に、嘘がないことが、なぜかわかった。

 酒が進むにつれ、場はだんだんと柔らいでいく。笑い声も大きくなり、距離も縮まる。隣の席では、拓也とショートカットの女性が、やけに盛り上がっていた。

 ふと気づくと、紗季は少し静かになっていた。

「大丈夫ですか?」
「え? あ、はい。ちょっとだけ、酔いました」

 そう言って、彼女はグラスを置いた。

「外、少し出ます?」
「いいんですか?」

 二人で席を立ち、店の外に出る。夜風が、ほてった頬を冷やしてくれた。

 新宿の雑踏は、相変わらず忙しない。それでも、店の前は少しだけ静かだった。

「合コン、慣れてます?」
「いえ、正直あまり……」

 彼女は少し困ったように笑った。

「友達に誘われて、断れなくて。でも、来てよかったです」
「それは、どうして?」
「……話していて、安心できる人がいたから」

 一瞬、言葉を失った。

 それが社交辞令なのか、本心なのか、判断する材料はなかった。それでも胸の奥が、少しだけ熱くなる。

「俺も、同じです」

 短い沈黙。

 その沈黙が、妙に心地よかった。

 店に戻ると、合コンは終盤に差し掛かっていた。連絡先の交換が始まり、解散の空気が流れる。

 紗季と目が合う。

 彼女は小さくうなずいた。

 スマホを取り出し、連絡先を交換する。その指が、少しだけ震えているように見えた。

 駅までの帰り道、彼女と並んで歩く。

「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」

「また……会ってもいいですか?」
「はい。ぜひ」

 それだけの会話なのに、不思議と胸が満たされた。

 改札前で別れる瞬間、彼女は振り返って言った。

「合コンって、もっと騒がしいものだと思っていました」
「俺も」
「でも、今日は……静かな嵐みたいでした」

 その表現が、妙にしっくりきた。

 電車に乗り、窓に映る自分の顔を見る。少しだけ、柔らいでいる。

 合コンは、ただの出会いの場だ。
 けれど、ときどき、人生のページを静かにめくる。

 そんな夜が、確かに存在する。

 それから、三日後。

 仕事の合間、スマホが小さく震えた。

紗季:この前話していた本、見つけました。
もしよかったら、今度一緒に本屋に行きませんか?

 画面を見つめたまま、しばらく指が動かなかった。
 合コンが終わった夜から、連絡を取るたびに、どこか慎重になっていた。期待しすぎないように、でも距離は離れないように。その微妙なバランスを、二人とも無意識に保っていたのだと思う。

俺:ぜひ。今度の土曜、空いてます

 送信すると、すぐに既読がついた。

紗季:空いてます
楽しみにしています

 短い文面なのに、胸の奥が静かに鳴った。

 ――合コンは、きっかけに過ぎない。

 それは、あの日店を出た瞬間から、薄々わかっていたことだった。
 あの場で交わした言葉も、笑いも、視線も、すべては仮の舞台装置だったのだ。

 本当の物語は、その後に始まる。

 土曜日の午後、約束の時間より少し早く着いた駅前で、俺は人の流れを眺めていた。
 遠くから、白いコートの彼女が歩いてくる。

 目が合う。

 彼女は、あの日と同じように、少し控えめに微笑んだ。

「お待たせしました」
「いえ、今来たところです」

 並んで歩き出す。
 合コンのときよりも、会話は少なかった。それでも、沈黙は不思議と重くない。

 本屋の入口で、彼女が言った。

「今日、合コンの話をしなくてもいいですか?」
「もちろん」

「なんだか、あれは“前書き”みたいで」
「……本編は、これから?」
「はい」

 彼女はそう言って、小さく笑った。

 その瞬間、確信した。

 あの夜、偶然同じ席に座り、偶然言葉を交わし、偶然連絡先を交換した。
 でも、今ここに並んで立っているのは、偶然じゃない。

 合コンは終わった。
 けれど、物語は、静かに続いていく。

 ページをめくる音は、まだ聞こえない。
 それでも確かに、新しい章が始まっていた。

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